12月19日
仙女といえばおとぎ話、精霊といえば魔術。
そういうわけでデネロス先生に話を聞きにきたのだが、老賢者の新しい住処には、意外な先客がいた。
「泉の精霊に贈り物だぁ? 人間風情が驕るなよ、バーカ」
寝台から身を起こしたシーフォンは一年前とついぞ変わらぬふんぞり返った態度でそう言い、言い終えると同時に、激しくくしゃみをした。寝台に潜り込み、ふにゃふにゃと片手を振る。
「おい、戸を閉めろ。風が……さ……さ……寒ぃ」
「おとなしく寝ていろ、また熱が上がるぞ」
暖炉にかけた鉄鍋に匙を突っ込んだデネロスが、どろりとした液体を木の椀に注ぎながら、シーフォンを叱った。
「シーフォンくんがどうしてここにいるんですか?」
「国境で拾った行き倒れだよ」
デネロスは面白そうに顎髭をこする。マナが自分を凝視しているのに気づくと、マナが子供の頃と同じように優しく、今は一人前になった彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
「行き倒れじゃねーよ。道端で休んでいたらこのクソジジィが無理にロバに……おい、薬はいらねえよ」
「強情な奴じゃな。飲まんと回復せんぞ」
「そこまでされる筋合いはねえんだよ! 胸糞悪ぃ!」
熱に掠れた声で叫ぶと、くるりと背中を向け、毛布に潜りこんでしまう。
デネロスはため息をつくと、湯気のたつ椀をマナに渡した。マナはそれを受け取って、メロダークを見上げた。
「メロダークさん、お願いします」
「……うむ」
メロダークがシーフォンを引き起こした。二人とも病人の扱いは慣れている。やせ細った少年を実に手早く、実に強引に押さえつけて、無理矢理薬を飲ませた。いくらかは逆流して鼻から出たが、八割方は喉に流し込める。
マナとメロダークとデネロス、並びにホルムの町とここの全住人、雪と冬と大河、すべての神々とタイタスと魔術師どもへの呪詛をわめき散らした後、シーフォンはへなへなと寝台に倒れこんだ。体力切れだ。
シーフォンの拳が届かぬ壁際に退避したマナが言った。
「久しぶりだね、シーフォンくん。元気そうでよかった。いいところに倒れていたんだね」
「だから風邪だよ! 色々どうなってんだお前!」
「ルギルダさんも風邪を引いてたよ。フナ風邪だって」
マナは励ますつもりだったのだが、あと十くらいは文句を言いたそうな目で睨まれただけだった。戸口まで飛んだ椀を片付けながら、デネロスが言った。
「しかし泉の精に贈り物か。北部の精霊信仰がある土地では、生贄を捧げておるそうだがね。その年に生まれた最初の仔羊、最初の麦、最初の林檎、最初の酒……」
「今が春なら、神殿の菜果園で果物が採れたのですが」
「そこまで深く考える必要はねえよ。水辺の精霊には水の物だろ」
シーフォンがのろのろと口を挟んでくる。一年経っても相変わらず親切だ。
「ま、それが基本の考え方ではあるな」
デネロスは、ネルが『正解』を自力で見つけた時と同じような満足気な顔で笑った。
ふと思いついたマナが、シーフォンに言った。
「シーフォンくん、冬至節にはひばり亭でパーティーがあるの。それまでに元気になってくれたら嬉しいな。パリスたちも喜ぶよ」
「いつの話だよ、バーカ。誰が出るか、バーカ。行かねえよ、バーカ。パーティー、バーカ。パリス、バーカ」
疲労が度を越したせいか、太鼓のリズムのように単調な罵倒であった。
「……フナ風邪は無理をすると長引くぞ」
メロダークがのっそりと付け足した。
今日はルギルダを呼び出す前にお弁当を食べた。
泉のほとりの草むらに並んで座り、ひばり亭で買ってきたサンドウィッチを食べ終えたあと、メロダークは、
「お前はもう少し我儘を言うといい」
と、言った。
うつむいたマナは膝の上に散ったパンくずを払いのけていたが、やがて恥ずかしそうにつぶやいた。
「ありがとうございます。メロダークさんはいつも私を気遣ってくださいますね」
大体いつも思いも寄らない反応が来る。
「……そういうことではなくてだな」
叱りつけるような調子で言われてしまう。
メロダークはマナをびくりとさせたことには気づかなかったようだった。あぐらをかいて空の両手を持ち上げ、掌に視線を落としている。見えない何かをつかむように、あるいは空中から言うべき言葉を絞りだそうとしているかのように、わきわきと指を動かした。
「お前に我儘を言われると……こう……なにか……ふつふつと血が滾るような気がするのだ」
「……すみません、意味がちょっとわからないのですが」
メロダークが黙った。しばらく考えこんでいたが、結局、適切な言葉が見つからなかったらしい。がっくりと肩を落とし、途方にくれたようにマナを見た。
「ないのか、何か。私にして欲しいことは」
「でも今でも神殿のお手伝いをお願いしていますし」
「あれは単なる奉仕だ。義務だ。俺が勝手にやっていることであって、お前の我儘ではない」
「神殿とは関係ない私の用事にも、こうやって毎日つきあって頂いて」
「それも俺が勝手にやっていることだ」
マナは、本格的に困ってきた。メロダークの方へと腰をずらすと、膝に手を置き、彼の顔を見つめた。うまく言葉にできないようなことでも、ただじっと表情を伺いお互いの目を見ているうちに、気持ちが通じることがある。メロダークとは特に、そういうことが多々あった。マナはこれは二人が深いところでわかりあえている証拠だと思っていたが、以前これについて聞いたキレハはテレージャに「それ、犬の躾けと同じよね」と漏らしたという。それはともかく、メロダークは膝に置かれたマナの手を見つめたが、浮かぬ顔のままだった。
「私、たくさんメロダークさんに甘えています」
「お前にとって、なんなのだ俺は」
マナは言葉に詰まった。
「……俺はお前の役に立たなければ、生きている意味がない。だがお前は、俺がいなくても、幸福になれる」
呆れるくらいの率直さで言った。マナは瞬きもせずに、うつむいたメロダークの顔に落ちた影や、眉間に刻まれた皺を凝視していた。
これは自分への愛情や信仰に限定した話ではなく、もっと大きな、たとえば彼の居場所についての話であることや、メロダークが本当に語りたいのは、与えることではなく受け取ることについてなのだということも、マナにはわかっていた。すべてを捧げることばかりに長けて、受け取ることについては誰にも教えられぬまま、ここまで来た男なのだった。マナの胸は、激しく痛んだ。
男への哀れみから愛を与えたと思われたくなくて――その二つをごっちゃにしてしまうには少女はあまりに潔癖であったし、単純に経験も不足していた――マナは、メロダークを抱きしめるのを、危ういところで思いとどまった。その代わり、考えながら、ゆっくりと言った。
「メロダークさん。神殿に」
「うむ」
「神殿に宝物庫があるのですが、扉の建てつけが悪くなっているんです。以前一度見てもらったとき、古い物だから直すには手間がかかると言われたので、ついそのまま放っておいたのですけれど。もしよろしかったら、それを修理していただけませんか?」
メロダークの表情がようやく和らいだ。
「なんだ、そんなことか。任せておけ。帰りに寄ろう」
「えっと、その後、夕食を神殿でご一緒に」
「ああ、甘えさせてもらおう」
「……それで……それから……宿舎にお部屋をご用意しますから、よろしければ、泊まっていってください」
頬が熱くなるのを感じて、マナはうつむいた。
「最近は毎日一緒にいるせいか、夕方にお別れした後、とても寂しくなります。だから………私、私は、メロダークさんともっと一緒にいたいです」
思い切ってそう言った。だがマナが勇気を振り絞ったのにもかかわらず、メロダークは、
「わかった。そうしよう」
と、大変あっさりした口調で答えた。
「では今日だな。修理のついでに神殿に置いてもらえるかどうか、アダ殿に掛けあってみよう」
「えっ!?」
驚いたマナが顔をあげると、メロダークが事もなげに続けた。
「ユールフレールでは正式な神官としての訓練も積んでいる。もちろん、アダ殿が認めてくれるかはまた別の話だが。神官が駄目なら下働きでもよかろう」
「メロダークさん! か、簡単すぎませんか?」
「……密偵をしている間も、新しい町で仕事を探す時は、大体こうだったぞ」
「そういうものなんですか?」
「そうだ」
マナは口をぱくぱくさせていたが、やがてさっと顔をそむけた。どうしよう、と思った。
どうしよう。
もしかしたら、このままメロダークが神殿で働くようになって、今日だけでなく明日、明日だけなくその先も一緒にいるかもしれない。涙が出てくる。
「マナ? どうした?」
メロダークの声が困惑している。
マナはぶるぶると頭を横に振った。
声を出すことができなかった。こんなことで泣いているなんて、馬鹿だ。
肩に手をかけられたので涙を見られたくないとさらに顔を背けると、メロダークが強引に少女の顔を覗き込もうとして、二人の体勢が崩れた。草の上で、メロダークがマナに覆いかぶさる。メロダークを押しもどそうとしたマナの手を、メロダークがつかんだ。ルギルダがちくわを食べた。
同時に顔をあげた二人に、泉を囲む岩のひとつに腰掛けたルギルダは、「……どうぞ、続けて……」と言った。
マナの上半身を引き起こしてやりながら、メロダークが戸惑った声で言った。
「続けるようなことは何もしておらんが……」
マナはメロダークとは違う意見があったようだ。跳ね起きると、二人に背を向け、顔を伏せたままたたたと駆け出した。メロダークの「おい!」という制止の声を無視する。
かなり離れたところにある木の前まで走っていくと、太い木の幹にがばっと抱きついて、動きを止めた。耳とうなじが真っ赤になっていた。
メロダークにはよくわからない理由で、マナは時々、ああいう風になる。回復するまで時間がかかる。
のんびりとちくわを食べ終えたルギルダに、メロダークは無言で、今日の冬至節の贈り物を差し出した。持ち手のところにリボンをつけた魚篭であった。中はアークフィア大河で釣った数匹の魚だったのだが、それを一瞥したルギルダは、手を出して改めることすらしなかった。
「……昨日の晩御飯も魚だったもので……」
「……いい加減、受け取っておいたらどうだ」
「……中身より、こうして会いに来るのが、肝心。嬉しい物です」
「……」
メロダークはルギルダをじっと見つめた。
「お前、水の精なのだから、水があるところは自由に出入りできるのではないのか」
ルギルダはそれには答えず、空を見上げた。
メロダークがつられて目を上げる。妖精の塔は、夜空を模したドーム状の天井に覆われているが、ここから見るかぎりでは、地上のそれとさしたる違いもない。ただ、ここには月はなかった。
「……星が減っているようです」
と、ルギルダが言った。
メロダークは沈黙した。彼らの視線の先では、一年前までは天蓋を支えるようにそびえていた妖精の大樹が、霧とも闇とも違う虚無に霞んでいた。